うまい文章を書くやつが、嫌いだった。
小賢しくて、「僕は頭がいいんだー」感が、計算高くて、「お前を笑わせるぞー」感が、人を舐めて、「どうだ。ここで泣けよ」感が、どうにも伝わってくるからだ。
読む人を尊敬していない。承認欲求の権化、とでも言いましょうか。
ひと(俺)の心は、お前に動かされるほど、軽くない。
巷に溢れる、いわゆる文章のテクニック本なんか、買ったことがないし、これからも買わない。読んだって、文章はうまくならない。
人を感動させる文章を書く才能は、吾輩にはない。
ま、偏屈で、卑怯で、弱虫。予防線を張っていたんでしょう。未熟な吾輩は、小さい頃から作文が大嫌いだったから。
で、たぶんそれは、半分はなんとなく正しく、半分は絶対的に間違っていたんだと思う。
“うまい”文章とはどのようなものか。ちゃんとわかってなかった。
テクニックというと狡猾さを含んで聞こえるが、正確に伝えるための文法は、当たり前に必要である。起承転結や語彙も避けることはできない。これもテクニックと言っていい。
ヒトの大脳が文章に求める、通行証みたいなものだ。
だってね、料理人が包丁も使えないんじゃ、飯がうまい以前の問題だもの。
重要なのは、“その先を創れるか”、だ。
計算なんかしていない。ただ読んでくれる人に尊敬を込める。あったこと、感じたことを素直に。飾らずに。それを基礎とする。
つねに書くことを意識する。風呂に入るときも、歯を磨くときも、飯を食うときも。自分の経験だけを、書く上での辞書とする。上っ面だけの修飾や引用、真似ごとは恥だ。
すると、ペンを持つと、指が踊りはじめる。生き様がそのまま、文章に映る。滲み出る。
「書く」は「生きる」である。逆もまた真なり。どのように生きるかによって、文章は変化する。
『三行で撃つ』(近藤康太郎著)に出会った。幸運にも。
ひょんなことから文章を書き始めた、このときに出会った。
パチンコで大勝ちして、深夜、重い財布にほくそ笑みながらふと、「まじ、ツイてたな、今日」ではじまった感想戦が、「あそこで当たってなかったら、くそヤバかった」と頓挫する。そんな感じである。
確かに、本書は表向き、表皮はテクニック本だ。どの章も、序盤は。
だけど、骨や筋肉は、水のように透き通った人生論である。
さまざまな物質を溶かして、運んでくる。「書く」という行為を触媒として、「生きる」を研磨する。ともすれば、沸騰する。すべて作者が、「書くこと」、「生きること」を愛すからだ。
こんな本はついぞ、見たことがない。
本を読んでいるはずが、頭の中では文章を書いている。よりよく生きたいと欲する。
「求めよ、さらば与えられん。」
ことばのもつ意味は、経験によってのみ、体感できる。
行動もまた、経験によってのみ、変えることができる。変わる。
おわり
